21. 覚醒
北海道人とはいえ内陸育ち。海で泳いだことすらない章吾にとって、北冥の水は優しくなかった。指先がすぐにかじかんで、思うように動かなくなった。
とにかくまずは、足跡の発見に努めることにした。
板前ならみな高下駄を履いているから「二」の字が見つかるはずだった。それをたどっていけば、海洋板前が棲んでいる庵が見つかるかもしれない。
「海の底 二の字二の字の 下駄の跡……か」
どこかで聞いた事のあるような句を詠みながら海底に到着したが、鉛の靴が海底を打ったとたん沈殿物が舞い上がり、あたり一面、煙幕を張ったようになって1メートル先も見えなくなった。そこから脱しようと足を踏み出しても、それがまた煙幕を広げるだけだった。
視界が晴れるのを待って、章吾は、地雷原を踏みしめるような足取りで前進を始めた。
1時間ほど、辺りをぐるぐると歩き回ったが、なんだか無駄なことをしているような気がしてきて足を止めた。
どちらの方角を見ても、平坦な砂の地面が広がっているばかりで、こんなところに海洋板前が隠れているようには思えなかった。だからといって、逮捕令状まで携えて捜索に出かけながら、手ぶらで帰るわけにはいかないので、さらに1時間、あてどもなく彷徨った。
水温のために、手先も足先も感覚が鈍く、疲れのせいかときどき眠ったまま歩いている自分に気がつくことがあった。
海上のようには見晴らしがきかないので、遠方は茫洋としていて何も見えないが、きっと同じような景色が果てしなく続いているのだろう、と思った刹那、
不意に、かつて経験したことのない超越的な感覚に充たされた。
「世界は地続きだ」
海底を歩いていれば魚と同じだ。どこの大陸にも、どこの島にも行ける。海底にも国境はあるが、税関はない。
無限の自由のなかに自分がいると直観した章吾は、ちょっと足を延ばして北極圏をのぞいてみたくなり、北へ向かって歩を進めたが、10歩もいかないうちに突然、後ろ髪を引かれる思いがして、歩を進めることができなくなった。
……そうか。数学が死ぬほど嫌いだった僕は、せめて高校は卒業してほしいという両親の懇願を振り切って、中学校を出ると、数学の勉強をしなくてすむ料理人の見習いになった。両親は僕がそれほど料理人になりたいのなら仕方がない、辛くても頑張れ、一流の料理人になれと応援してくれた。なのに、それも裏切って海上保安庁の職員なんかやっている。なんて身勝手な親不孝者なんだ、僕は。
と、自分の来し方を顧みるかのように後ろを振り返ると、後ろ髪を引いていたのは、いっぱいに延びきった送気ホースだということに気づいて、自分の目的を思い出した。
「あ、そうか。犯人の捜索をしていたんだった」
我に返ると、さまざまな種類の魚介類が、回転寿司のように章吾の周りを往来している。 犯人逮捕の手がかりになるものが見つからなかったことの埋め合わせに、海の幸を土産に船に戻り、かつて鍛えた包丁の腕を見せれば、保安官たちも喜んでくれるにちがいないと、章吾はそのなかから、ウルメイワシ や キンメダイ、イイダコ、ホタルイカ、ムールガイ、アカヒトデ などを選んでポケットに入れ、ヘルメット内のマイクで、引き揚げるように船に連絡した。
「さすがだな、弓崎」
晴れ渡った北海の空の下、巡視船《しこたん》の甲板にしつらえられたテーブルの上で見せた章吾の包丁さばきに、船長 は唸り、ついさっきまで海中を泳いでいたウルメイワシやキンメダイの造りの新鮮な味覚に、乗組員たちは舌鼓を連打した。自分の部屋から焼酎の一升瓶を持ち出してきた保安官もいて、船上は宴席に変わった。
「アカヒトデは、二枚におろしたのをさっと揚げてサワークリームと辛子をのせると、ビールの肴にいけるんですよ」
そう言って、章吾が平たいヒトデを側面から、背側と腹側にきれいに切り分けたところで、保安官のひとりが何気ないようすで言った。
「被害者もちょうどこんな風になってたなあ」
だが、それは同僚たちの顔から笑みを消し、ほろ酔いをすっかり冷まし、くつろいだ空気を凝固させた。
彼らの何かを咎めるような眼つきは、飲食の席であの酸鼻をきわめる事件を思い出させたことに向けられているのか、それとも、貴い人命が失われた事件をヒトデの二枚おろしなどに喩えたことに向けられているのか、章吾はわからなかった。
《ひょっとして、殺したのは僕じゃないかと疑われているのか?》
章吾は、にわかに生まれた疑惑に戸惑いながらも、あれこれ考察してみた。
修業時代、どうしても海洋板前の夢を見ることができなかった理由は、僕自身が海洋板前だったからだと仮定すれば説明がつくんじゃないか? 夢を見ている本人が夢の中で自分自身を見るなんて、僕はナルシシストじゃないからそんなことはできない。じゃあ、やっぱり犯人は僕だったのか? 僕が海洋板前と呼ばれる生物だったのか? もしそうなら、それを看板にして、包丁一本サラシに巻いて日本中の一流料理店を渡り歩くという、一度は消した夢をまた描くことができる。 しかし、人を殺した。その罪を償うために刑に服さなければならない……人殺しの汚名を背負って生きなければならない……
章吾は誰もいない船倉に下りてゆき、ベンチに腰かけてこのジレンマをどう克服するかを、15秒ほど考えに考え抜いた。
腹をくくって甲板に戻ってくると、章吾は自首を申し出た。
しかし、それにあたって条件を出した。
裁判で罪が確定しても、量刑を禁固1年にするという保証がなければ、自首はしないし逮捕にも応じないと上官に伝え、了承された。
操舵室の奥に襖が立っていて、開けると三畳の座敷があり、そこが取調室だった。
章吾と船長が、ちゃぶ台をはさんで向かい合い、座布団に坐ると、事務の女性がそれぞれに煎茶とひと切れの羊羹を持ってきた。
「1年の禁固を希望した理由は何なんだ?」
「はい。衣食住が保証された環境で、海洋板前をテーマにした漫画の制作に専念できるからであります」
「ほう、漫画が描けるのか……」
「いえ、描いたことはありません。でも、ごく一部の料理人たちの間でしか知られていなかった海洋板前について、その世界観、人生観を、あまねく人びとに伝える手段としては漫画が最適なんです。テーマとしては非常にユニークであり、しかも作者自身が海洋板前、おまけに人殺しということになれば必ず話題になり、一躍、人気作家になることでしょう。そしていつかは一流料理店の店主の眼にとまるはずです。包丁一本サラシに巻いて、日本全国の一流店を渡り歩く包丁人渡世も夢ではなくなります」
章吾は意気込んで、ちゃぶ台を叩いた。
「そうなればもう、殺人の前科など問題ではなくなるではありませんか! 亡くなった善さんも浮かばれるはずです。あ、そうだ。単行本になったら、その扉に献辞を入れます。《善さんに捧ぐ》。これはいい供養になるでしょう!」