28. 九州上陸
犯人がすでに逃走したことで、ひとまず安心した千枝は、帰ってからまだ何も食べていなかったことを思い出すなり空腹を覚えた。
寝る前の炭水化物は美容に禁物と知りつつ、胃袋が断乎として要求するうどんを茹で始めた。
「どういてわしは、こう麺類が好きながやろう?」
ぼんやりと麺を掻き回していると先日のことが頭に浮かんだ。
婚約者の実家に、その両親に会うために行ったとき、製麺所に勤めていると自己紹介したら、相手の母親に洗面所にお勤め? と聞き返された。製麺器のオペレーターをしていると言うと、洗面器のオペレーター? とまた聞き返された。
苗字もよく間違えられる。《上川》なのに、入社して半年経ったいまでも、何人かはまだ《川上》と呼ぶ。工場の壁に掲げられているシフト表の名前の欄も《川上》のままになっている。
不満ではあるが、千枝自身も大学時代、《永吉》という剣道部の後輩を、長い間《吉永》と思いこんで、そう呼んでいたのだった。だから、《村中・中村》《本山・山本》など、こういう姓の家に生まれた人間の宿命だと諦めていた。
しかし、今回の事件の犯人を逮捕して一気に名を上げれば、《上川》を《川上》と言い間違える世の中を、製麺器と言ったら、洗面器? と聞き返されるような乱れた世の中を正すことができるかもしれない、これは渡りに船だ、と考えて千枝は、捜査官に応募したのだった。
だから、逃しはしたものの、犯人がまだ生きていたことが千枝の夢をつないだ。
「もう、捜査権がどうやとかは関係ないがで。犯人を逃がしたんはわしの落度やき、どこまでも追いかけていって捕まえちゃる! ……あ、そうじゃ」
寝ている間にフェイスブックのコメントが増えているだろうと、丼に入った素うどんの載った盆をもってパソコンが置かれている机の前に座った。
いつも机で食事をとるので、パソコンのキーボードには、うどんの出し汁やスパゲティのソースやラーメンのスープが飛び散った跡が点々とついている。
千枝が事件を収束させたことに対する賞賛や、さらに詳しい報告を求める要望など、書き込みが倍ほどに増えていた。
「犯人を逃がしたこと、どうゆうて釈明するかのう。実は生きちょったなんて書けんぞね」
それが気になって、コメントを読んでも頭に入らなかったが、だらだらと斜め読みしているうちに、あるコメントにぶつかって思わず体を乗り出した。
百田 タキ この人、九州にある古賀さんのお屋敷で奉公してた下男の久平さんですよ。 いいね!・返信・2時間前 |
「下男のう」
千枝がスキャナーで取り込んで、フェイスブックで公開した犯人の画像をあらためて見ると、風体はたしかに下男のそれだった。
日焼けした顔、首に巻いた手拭い、よれよれのランニングシャツ。作業ズボンの尻のポケットに突っ込んであった軍手。そして、下男の仕事といえば水汲みや薪割り。持っていたナタは薪を割るためのものだったのだ。
連続辻割り殺人事件の犯人は、古賀家の下男、久平。凶器はナタ。
犯行の動機は依然として不明だが、犯人が特定できたことで、捜査に弾みがついたと千枝は感じた千枝は、せっかちに画面をスクロールをしながら、犯人の周辺に関わりがありそうな情報を探した。
すると画面の下端から、男性が全裸で仰向けになった写真が上がってきたので、千枝はスクロールを止めた。
男性の頭部は血だまりのなかに浸かっている。頭部は、棒で割られたスイカのように砕け散って、脳漿があたりに飛び散っている。
「手練の仕業と聞いちょったけんど、これは荒っぽいのう。ほんまに同一犯かえ?」
この報告を境に、他のユーザーのコメントの傾向が一変していた。
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久保田 麗華 え"~はんにんしんだんぢゃないの??? いいね!・返信・50分前 |
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大久保 哲郎 ウサンクサイと思ってた。やっぱり釣りか ψ(`∇´)ψ いいね!・返信・49分前 |
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久保井 誠司 (・_・)ハア? いいね!・返信・46分前 |
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久保川 巌 これなに?なんの話題? いいね!・返信 · 536・44分前 |
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小久保 シモーヌ あなたが失敗すると「これだから川上はダメなんだ」じゃなくて「これだから女はダメなんだ」って言われるんですよ。ご自分の立場をよく考えてくださいね。 いいね!・返信・35分前 |
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久保野 彰 そう。女の噺家のやる落語ってなんか面白くないんだよね。 いいね!・返信・30分前 |
「あーうるさい!」
千枝は、パソコンをシャットダウンすると、旅行カバンに荷物を詰めて、防具と竹刀を担いだ。そして高知市役所に転出届を出そうと思って家を出たらまだ夜中だったということを思い出して、まんじりともせずに夜を明かし、朝一で手続きを済ませ、高知空港(愛称=高知龍馬空港)に急いだ。
千枝が九州空港に降り立ったのは、その2時間後だった。