30. 知事の正体
被害者の後頭部には深さ10センチ、長さ15センチほどの、ナタによると見られる裂傷が見られた。
しかしそれは、フェイスブックの書き込みによく見られた、メスを使ったとしか思えないような鮮やかな斬り口とか、眠り狂四郎の円月殺法も裸足で逃げる華麗な太刀さばきといった賞賛にふさわしからぬ粗暴なものだった。
千枝には見当がついていた。
高知での自動車事故でしわくちゃにされたダメージから、まだ回復していないのだろう。
もしそうなら、奉公先の古賀家に戻って、傷が癒えるまで何食わぬ顔で下男の仕事を続けようという了見でいるにちがいない。
そして、あわよくば、古賀家の令嬢(娘がいるかどうかは不明)を手篭めにして孕ませ、家督を奪い、その権威をかさにきて古賀家とその財閥(財閥があるかどうかは不明)を意のままにするつもりでいるのだろう……。
検視を兼ねた壮行会もたけなわを迎え、州知事は、各界からの招待客を相手に、次の知事選での支援を訴えていた。
屍体愛好家、ネクロ平田 は、背負っていた柳行李からタブレットPCを取り出すと、全裸で横たわっている遺体の各部を撮影し始めた。
1枚撮るとディスプレイで確認し、深く頷きながら、ふむぅ、と唸るという行動を繰り返した。
頭部から足先まで撮り終えると、ズボンを下ろしてパンツを脱ぎ、検視台によじ上って遺体におおいかぶさろうとした。
「この 猟奇野郎!」
それまで招待客たちと談笑していた州知事は、それを見て悪罵を飛ばすと、検視台に駆け寄って猟奇野郎を引きずり下ろし、顔面に鉄拳をめりこませた。
「とっとと失せろ!」
ネクロ平田は、噴き出す鼻血をおいしそうに啜りながら迎賓室を出ていった。
検視が終わると、九州銀行頭取、售罟塢が、どぎゃんも太夫の入ったデカンタを持って、千枝のそばにやってきて、名刺を差し出した。
「上川さんでしたね。初めまして。售罟塢と申します」
「このお名前、どう読んだらええですろうか?」
「そのまま、售罟塢と読んでくださればけっこうです。いやあ、それにしてもぜんぜんお顔に出ない。お強いんですね。まあどうぞ」
と、售罟塢頭取は千枝のグラスに、どぎゃんも太夫を注ぎ足した。注ぎながら、千枝の胸と腰をその視線で嘗め回した。
「失礼ですが、お仕事は何を」
「この捜査に参加するために仕事は辞めたがです」
「いやあ、そりゃあ見上げたものだ。ん? そういえば……」
頭取は、俯いて何やら黙考している振りをしながら、ワンピースから生えている千枝の細い脚を鑑賞した。
「うん、そうだ!」
頭取は、ぱちんと指を鳴らした。
「実は、私の秘書のひとりが急に退職することになりましてね。その空きを埋める人材が見当たらなくて困っておるのです。もしよろしかったら、どうですか。秘書になっていただけませんか? 待遇はご満足いただけるものにするつもりです」
「この 好色一代野郎!」
それまで、はりはり鍋に舌鼓を鳴らしていた州知事は、色に餓えた頭取の眼つきを見るや、鍋を掴んで走り寄り、それを頭取の脳天に叩きつけた。
頭取は失神。鯨肉と水菜まみれになったまま警備員に外に引きずり出された。
養豚場のオーナー、肥田丸太が千枝に話しかけてきた。早くも、耳まで真っ赤になって、呂律が怪しくなっている。
「川上さん、でしたっけ」
「上川です」
「あ、失礼しつれい。いやあ、豚には名前なんかないもんで、人の名前を覚えるのがどうも苦手になっちゃって、はは」
筋の通らない理屈でごまかすと、肥田丸太は、養豚振興組合の会員の使命感から、豚肉の栄養価について語り始めた。
「豚肉といえば、なんといってもまず、ビタミンB1。これが不足すると、エネルギーが効率よく代謝されないので疲れやすくなります。事件捜査という激務には欠かせません。とくに豚のレバー。これはもうビタミンのマグマですよ。ビタミンAからZまで……」
「この 蘊蓄野郎!」
それまで、招待客である在九州トルクメニスタン総領事と囲碁を打っていた州知事は、養豚業者が専門知識をひけらかすのが耳障りで対局に集中できず、腹立ちまぎれに碁盤の脚をつかんで、養豚業者に投げつけた。
衣服のうえからでも肋骨の形がわかるほどに痩せ細った肥田丸太の体にそれは命中した。碁盤よりも軽い養豚業者は、碁盤とともに、窓ガラスを破って14メートル下の歩道に落下していった。
尾上酉衛門は、歌舞伎の名門というプライドのためか、ほかの捜査官たちとは距離をおき、招待客たちとの会話を避け、ひとりでちびちびと飲んでいたが、養豚業者が窓から落下したことで、場の緊張した空気がいくぶん和んだと見て、歌舞伎の演目、『菅原伝授手習鑑』の第四段『寺子屋』の名セリフを、さり気なく口にした。
「せまじきものは宮仕えじゃなあ」
「この 重要無形文化財野郎!」
それまで、ペットととして可愛がっているニホンザルのノミ取りをしていた知事は、そのセリフを、知事という公職に対する皮肉と受け取って激怒し、サルを酉衛門にけしかけた。
猿は、胸のすくような跳躍を見せて酉衛門の顔に飛びつき、その顔面を掻き毟って血まみれにした。
役者の命である顔を損なっては、もう歌舞伎を続けるわけにはいかない。尾上酉衛門は引退を決意し、ハローワークに仕事を探しに出かけた。
4人の捜査官を追い出して、残りのひとりだけ見逃すのは不公平だと、千枝も罵ってやろうとした州知事だったが、相手が女では、「◯◯野郎!」は使えない。しかも何も話さず、おとなしく食べて飲んでいるだけだ。そんな人間に襲いかかるための口実が思いつかない。
州知事は苦し紛れに、「この 女野郎!」と叫んで、千枝に襲いかかろうとしたが、そのとき、ガラスの割れた窓から、アヒルが飛びこんできて、州知事の横顔に強烈な飛び蹴りをかました。
「知事だ!」
職員たちが一斉に発したその言葉は、アヒルに向けられたものだった。
迎賓室に突如として現れたアヒルは、唖然としている招待客たちを前に、事の次第を明かした。
「お集りのみなさん。私が正統な州知事です。こんニセ州知事の呪文でアヒルに変えられてしもうて、田舎の農家に長年、幽閉されとったとです。こいつのおかげで、辛か年月ば過ごしました。ぜんぜん味付けのされとらん野菜や穀物ばかり食べさせられました。そして種アヒルとして、タイプやない雌といやいや交尾ばさせられたりしよりました。そして、こん雄、精力が減退しとるけん、そろそろフォアグラ用にするか、と飼育係が話しよっとを聞いて、私は、必死になって飛ぶ稽古ばして、柵ば飛び越えて逃げ出し、何度も地面に落ちながら、ひと月かけてここまで飛んできたとです!」
そしてアヒルは、失神して床に転がっているニセ州知事の上に飛び乗って叫んだ。
「いまでは、ツバメんごつ速う飛び、鷲とでん闘える力ばつけたけん、きさんごたるケチな化けもんなんぞ、いっちょん恐ろしゅうなかぞ!」
すると、ニセ州知事の体が縮小し始めた。最後に親指くらいの大きさのカニになって、こそこそと逃出そうとするところを、アヒル州知事が水かきのついた足で押さえて、黄色い嘴で噛み砕いて呑み込んだ。
「千年生きたカニは神通力ば得て、人間に化けたりできるごつなるとです。行政の長という権力に憧れとったとでしょう、きゃつらは」
職員のひとりが言った。
「よくぞ生還してくださいました。これで、あの横暴な州知事に州庁を壟断されることもなくなりました。……しかしながら、カニが死んだいま、州知事を人間にもどす呪文を知っている者がいなくなってしまいました」
「あ」
刹那、アヒル州知事は言葉を失ったが、すぐに九州男児らしい豪放磊落な笑いを響かせた。といってもアヒルなので、表情からは笑っているのがわからなかった。
「よかよか。アヒルでおった期間が長かかったけん、これもなかなか居心地がよか。そや、執務室の床に池ば掘ってくれんね。これからは、そこに浮かんで仕事ばすったい」
捜査官のための壮行会は、正統な州知事の帰還と圧政からの解放を喜ぶ州庁職員たちの祝賀会に変わり、連続殺人事件の話をするものはいなくなった。
被害者の遺体は、みなが臭い臭いと言うので、会場から運び出されて、どこかにその辺に放り出されたままになっていた。
4人の捜査官が脱落し、ひとり残った千枝は、ともかく捜査を始めることにして、祝賀会の狂躁を背中で聞きながら庁舎を出た。