31. 古賀一族
千枝 は、犯行が常に深夜だったことを考えて、夜間に犯人の捜索をすることにし、夕食をとると、千鳥格子のワンピースのうえから防具を着け、竹刀を握って、アパートを出た。
初日は、犯行現場を起点にして、蚊取り線香のように渦巻き状に範囲を広げながら犯人を探すことにした。
まずは、現場となった、住宅街のなかにある無人駐車場の前から反時計回りに歩き出したが、10歩も行かないうちに、歩道に面した家の壁の前にA4くらいの大きさの平面的な男がしゃがんで何かしているのが眼に入った。
近づくと、壁の、地面に近いところに空いている四角い穴に薪をくべている。その上にあるガラス窓を透して、若い女性が湯につかろうと風呂桶の縁をまたいでいるところが見えた。穴は風呂の焚き口だった。
大きさが不揃いの薪が歩道にまで散乱していて、歩行者はそれを避けながら歩いている。
「こいつ、薪もまともに割れんがか」
ハイヒールで薪を左右に払いながらその家の前を通り過ぎようとして千枝は足を止めた。そして後戻りをすると、その玄関の表札を見た。
「やっぱり!」
千枝は頷いて、竹刀で手のひらをぱしっと打った。
犯人の画像をフェイスブックで公開したとき、これは、古賀という家に奉公をしていた久平という名の下男だと、誰かが書き込んでいたのを思い出したのだ。
「ほいたら、この男が久平なが?」
しかし、うずくまっているので顔が見えない。平面なので横顔がないから、正面から確かめるしかないが、焚き口に顔を向けているので、男がこちらを振り向くのを待つしかない。
「けんど、ナタの達人の久平なら、こんな無様な薪割りはせんろう。これは別人やないが?」
しかし、今回の久平の殺害の手口が粗暴で、とても技と呼べるようなものではなかったことを思い出した。
「そうか。事故の傷がまんだ癒えちょらんがか。とするなら、やっぱりこいつは久平やろ」
男は、火吹き竹で焚き口に息を送り始めた。
千枝は、男の後ろに立って独りごちながら、あれこれ考えを巡らせた。
もし久平なら、自分の顔を覚えている可能性があるから、逮捕しに来たと勘づくかもしれない。ナタで襲いかかってくるなら闘うまでだが、飛んで逃げてしまうかもしれない。いまちょうど背を向けているから攻撃を加えるには千載一遇のチャンスなのだが、背後から襲うなどという卑怯な手段は剣士としては慎みたい。
「ぬるいわ。どんどん燃やしてちょうだい」
「へい」
女性の声に答える下男の声が聞こえたが、千枝は犯人の声を知らない。
男が久平かどうか判断しかねていたが、いつまでも腕組みして考えているわけにはいかない。もしあれが久平なら、あんな美しい顔と罪なまでに豊満な肢体を持った令嬢(かどうかはわからない)がひとりで風呂場にいるのに、何もしないはずがない。手篭めにして孕ませて、古賀家とその財閥(があるかどうかもわからない)を支配するつもりなのだ。背後から襲うのは卑怯だなどと言っている場合ではない。
金切り声とともに千枝が放った強烈な突きで、下男は焚き口のなかに飛ばされて、たちまち燃え尽きた。
しかし、アパートに帰ってからも、千枝の疑念は晴れなかった。
千枝が焼き殺したのは、ほんとうに久平だったのか。やはり本人かどうかを確認してから打ち込むべきだったのではないのか。いやしかし、古賀家の下男で平面、と条件が揃っているのだから、そらもうあんた、どえらく高い確率であれは久平だったはずだ。
「あ、そうじゃ、サロンパスの匂いがせんかった。それを忘れちょった!」
あれは久平だったという確信がうまれつつあった千枝の心が、大きく反対側に傾いた。
「いや、薪を焚く匂いに消されちょったのかもしれんで」
それでも、心は《誤殺》側に傾いていた。
翌日の朝まだき、千枝は防具を着けず、パジャマ代わりのジャージを着てジョガーを装い、昨夜の現場の様子を探りに行った。
前日は夜だったので眼につかなかったが、アパートから昨夜の現場までジョギングをしながら、とんでもないことに気がついた。
家々の表札がみな《古賀》になっているのだった。
千枝は脚から力が抜けるのを感じて走るのをやめた。
「みんな古賀 てどういうことや。こ の辺の家はみ んな親類なが? ほいたら、やっ ぱ り人違いやったがか? 気が 狂いそうちや」
千枝が混乱した頭で、ふらふら歩いていると、頭上で鳥の羽ばたきが聞こえた。見上げると、電柱の頂にとまって千枝を見下ろしているカラスがいる。
「九州人の苗字はぜんぶ古賀たい。そぎゃんこつも知らんで九州さん来たとか。九州ば甘う見たらいけんばい。ま、せいぜい痛か目におうたらよか」
と言うと、カラスはアホーアホーと啼きながら飛び去った。
「九州人がみんな古賀ゆうがは知らんかったねゃ。けんど、他の4人の捜査官に古賀はひとりもおらんやったぞね」
すると今度はハトが、ク・ク・ル・ク・ク・パロマと啼きながら千枝の脳天にとまった。
「そん人たちも古賀ですばい。誰でん彼でん古賀やと区別がつかんごとなるけん、九州ではそれぞれが通称ば使いよっとです」
千枝の頭に、どろりとした白い塊を残して、ハトは飛び去った。
「けんど、A4サイズの下男はそうおらんろう」
そこに路地から、けっこうけっこうと言いながらニワトリが現れた。
「もともと九州はB判が主流やけん、下男はたいていB5ばってん、A4もおっとよ」
と言って、また路地に戻っていった。
昨夜の下男が久平だったという結論にまた傾きつつあった千枝の推測は、この鳥たちによってご破算にされてしまった。
B5の面積は、A4の84パーセント。ひとまわり小さい。
「そういや、あれはB5やったかもしれんで。下男がうずくまっちょったき、大きさがようわからんかったがじゃ。たしかにちっくと小さかったような気もする」
罪もない人間、しかも平面というマイノリティとして底辺で生きている弱者を殺してしまったかもしれない。高知で、一度は逮捕した犯人を逃がしたために次の犯行を許してしまったことが、千枝を九州くんだりまで連れて来たそもそもの動機だったというのに。
もしこれが人違いで、犯人がまだ生きていて、新たな犯行に及んだとしたら、もう自分は生きてゆけない。
この犯人は犯行の間隔を5日以上空けたことがない。だから5日間、念のためにひと月、様子を見て、その間に事件が起きなかったら、自分が仕留めたのは、犯人の久平だと断定するつもりだったが、それでも達成感を持って捜査を終えることはできないだろう。
そんなことを考えながら、一日に何度もフェイスブックページ《久米小路駅辻斬り事件ヽ(#`皿´)ノ》を恐る恐るのぞく日が続いた。