徒労捜査官

人間なのか何なのかよくわからない連続殺人犯を追う捜査官たちの不活躍を描いた小説非小説

20. 深淵へ

 

 三等海上保安士補、弓崎章吾f:id:ironoxide:20150517155758j:plainは、漁師を殺害した生物が、板前である可能性を示唆した。
「人間を二枚におろした鮮やかな手口。あれは、想像を絶する修業を積んだ板前の技と思われます」

 そして、《海底暮らしも楽じゃない・北海編》というタイトルのついた夢について上官たちに話して聴かせた。

 

 自分は旭川の中学を出るとすぐに、板前見習いとして地元の割烹料理店で働き始めました。
 住み込みだったので、先輩の板前たちと同じ部屋で寝起きしていました。
 炊事は新入りがすることになっていて、自分も毎日、早起きをして先輩たちの朝食を作っていました。そして、まだ寝床にいる先輩たちが、どんな夢を見たのか話し合っているのを、いつも台所で聴いていました。

 その話のなかに必ず出てくるのが《海洋板前》でした。

《海洋板前》は、先輩たちが共有していた夢で、今日は誰の夢に板前が出てきたか、そして板前がなにを言ったか、どんな技を見せたか、といったようなことを報告しあうのです。そうやって海洋板前の技を盗み、先輩たちは腕を上げていきました。

 自分はその夢を見たことがなく、どんな夢なのか先輩に尋ねても、まずはお前がその夢を見てからでないと話にならない、金星人を見たことのないパンダに、金星人とはどういう生き物なのか説明してもわからないだろ? と相手にしてくれません。

 ただ、先輩たちの間で交わされていた話から、その生物は海底に庵を結んで、行者のような生活をしているらしいということはわかっています。
 とても謙虚で、みずからを《生涯板前見習い》と呼び、日々、魚をさばく稽古を欠かさないそうです。
 魚介類なら種類にかかわらず、どんなものでも思いのままにさばけるそうで、あの平べったいヒラメをぴったり100枚におろすところや、クラゲを角切りにするところなどを見たのだそうです。ウニの桂むきができるほどにまで技を極めたら、板前を引退するとかいう話でした。

 しかし、そんな熱意から、魚をさばく技が人間にも通用するのか知りたくて、深夜、陸に上がって海辺にいる人間で腕試しをする、いわば辻斬りのようなこともしたそうです。

 自分は、なんとしてもその夢が見たくて、毎晩、床に就くと、眠りに落ちるまで、海洋板前を自分なりにイメージして夢につなげる努力はしていたのですが、1年経っても2年経っても、現れてくれませんでした。

 結局、自分の板前としての資質に疑問を感じるようになり、店を辞めてしまいました。その後しばらくはぶらぶらしていたのですが、いつまでもそうしているわけにもいかないので、しかたなく海上保安庁に入ったというわけです。

 そこに今回の事件です。

 この犯人こそが、先輩たちの夢に出てきたという《海洋板前》に違いない、この職業に就いたのも運命の巡り合わせかもしれない、といま思っています。もし、海洋板前をこの手で逮捕することができたら、犯人に弟子入りするつもりです。

 

  犯人に弟子入りしたいという章吾の話を聞いて、意気に感じた保安官たちは、海洋板前の犯行と断定し、無線機で裁判所に逮捕令状を請求すると、5分後に令状がファクシミリで送られてきた。

  国後で、善さんの遺体の引き渡しをすませ、犯行のあった海域に戻って錨を下ろしている巡視船のデッキには、潜水服を装着し、あとはヘルメットを被って潜水するばかりの態勢にある弓崎章吾の姿があった。

 
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潜水服のエンジン部分。最高78時間の潜水を可能にする。

 

「板前を発見しても、ひとりで逮捕してやろうなんて考えるんじゃないぞ。まず船に報告しろ。すぐに応援を送るからな」
「わかりました」
「逮捕令状は持ったか」
「ここに」

 胸のポケットをぽんと叩いた章吾に、真鍮のヘルメットが被せられた。

 ヘルメットからは、通信ケーブルといっしょに束ねられた送気ホースが延びていて、甲板でとぐろを巻いている。

 ヘルメットには、正面だけでなく、左右と上部にも丸窓がついているので視界は広いが背後が見えない。ヘルメットの首は回転しないので、後ろを見ようとするなら、全身で振り向くしかない。いきなり背後から襲われたら防ぎようがない。護身用に厨房から借りてきた出刃包丁を手にしていたが、海洋板前が相手では、気休めにしかならないことはわかっていた。

 一流の料理人になり、包丁一本サラシに巻いて、日本全国の一流店を渡り歩く包丁人渡世の夢を粉砕した海洋板前を逮捕して、なぜ、先輩たちの夢には出てきたのに自分の夢には出てきてくれなかったのか、命の危険は覚悟のうえでその理由を聞きただしたかった。

  舷側の梯子をつたって、海に体を沈めた章吾は、鉛のベルトと鉛の靴によって、一直線に海底へと引っぱりこまれていった。

 

∴ つづく ∵

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