24. 権力の遁走
田淵警察庁長官 は、地図上に示された犯行場所を、指し棒でぱんぱん叩きながら順番に辿っていった。
「根室の次がここだ。ええと……なんて読むんだ? ニシオキ……?」
「わからん」
「知らん」
幹部一同、読めなかった。
「これは《行》に《方》だから、ユクエシだろ」
「それ、ナメガタって読むんだ。俺、地元」
警視正 は、幹部たちを睥睨して言った。
「たしかミナミコマだったよな?」
「そんな感じだったな」
「うん、ミナミコマでいいと思うけど」
埴科郡[長野県]
「わからん。ショクカグン? まさかな」
「あ、これ見たことある。なんだったけな、ええと……」
「パスパス。次いこうよ」
「砺が栃木の栃に似てるから、トチナミ?」
「惜しい! トナミなんだよな」
教養を見せつけることができた警視総監が、図に乗って言った。
「面白くなってきたぞ。次いこう!」
そのとき巡査部長 が腕組みをしてニタニタしているのを見て、気勢をそがれた警視総監が尋ねた。
「なんだよ。何かわかったのか?」
「うん。いまのみんなの遣り取りを聴いててわかったよ。犯人があの自治体に眼をつけた動機が」
「え? 仇討ちじゃないのか?」
「そりゃ見当外れもいいとこだな。そうじゃなくて、根室を出て山形に入ってからは、犯人は読みにくい名前のついた自治体ばかりを選んで犯行を重ねているんだ」
幹部たちは犯行場所の名前をひと通り眺めた。
「ほーんとだ! みんな読みにくいな」
「俺なんか、ひとつも読めんぞ。わははは」
この会話が耳に入った田淵警察庁長官は、磐石と思っていた《仇討ち説》が一顧だにされず否定されたことにいたく傷ついたが、自分は警察庁における最高責任者であり、公正な立場で捜査の指揮を取らなければならないという自覚から、《犯人は難読の地名を選んで辻斬りを行っている説》にも耳を傾けなければならなかった。
そこで、最後の犯行場所が島根県だったことから、島根の西と南で接している山口県、広島県、岡山県の読みにくい名前の市や郡を選び出し、それらの自治体に注意を促そうということになった。
田淵警察庁長官は、しぶしぶノートパソコンを立ち上げて、山口県と広島県のホームページにアクセスし、読みにくい名前がついている自治体をいくつか挙げた。
「ちょっと待てよ」
警視総監がディスプレイに表示されている《萩市》を指先でコツコツと叩いた。
「なんで、これが読みづらい名前に入ってるんだよ」
田淵長官は、したり顔で眼鏡を人差し指で押し上げた。
「これはハギシだけど、うっかりオギシと読む奴がいるんだよな、はは」
「いや、たしかに読み違えやすい字だけどだな、読みづらい字っていうのとは違うぞ。ハギをオギと間違える奴が悪いんだよ」
山口出身の警部補も、周南市をコンコン叩いて、
「これ、そのまままじゃん。普通にシュウナンシと読めばいいんだよ。それに広島の世羅郡も、まんまセラグンでいいの。考えすぎだって」
それを見ていた警視正も、瀬戸内市を拳でゴンゴン叩いた。
「なんでこれなんだよ。これセトウチシとしか読めねえだろが」
賞賛を浴びるとばかり思っていた田淵警察庁長官は、すっかり萎縮して細々と答えた。
「これは、その、セトナイシとか読む人もいるかと思ってさ……」
「そんな奴いるもんか。バっカだな、おま」
プライドも自負も木っ端微塵にされた田淵警察庁長官は、ふてくされて意味もなく画面を上下にスクロールさせていたが、いきなり立ち上がって叫んだ。
「あーわかったわかった、どうせ俺はバカだよ、能無しの役立たずだよ! だったらお前らの好きにすりゃいいじゃないか。俺は降りるからな!」
そして椅子を蹴ると、半泣き顔で会議室を出ていった。
「なんだなんだ、職場放棄かよ」
「ほっとけ。あいつは降格処分にして反省させることにしよう。そんなことより、ほかの県も全部調べて、読みづらい地名をなるべくたくさん集めようや」
巡査部長の指示で、四国、九州、沖縄まで、読みづらい地名を選び出して、それぞれの自治体に治安の強化を求める通達を出した。
そして、緊急記者会見を開き、超法規的措置により警察がこの事件に介入することを発表し、さらに、犯人が読みづらい地名をもった自治体を選んで、そこの住民を標的にしていると断定したことを伝えた。
ところが翌日の未明、高知市で、17人目の犠牲者が出たことを、フェイスブックで知った職員が、巡査部長に報告した。
日本人なら誰でも読める《高知市》で事件が起きたことで、警察は面目まるつぶれになり、その日も緊急記者会見を開き、この事件から完全に撤退することを発表した。
さらにその翌朝、高知市内で犯人が遺体となって見つかった。