33. 服役愛
歯舞群島のなかの貝殻島に、忠彦の本質が収監されている貝殻刑務所がある。
千枝は、貝殻島空港に降り立つと、刑務所に行くのに都合のいい東改札口を出たところで、後ろから肩をたたかれた。
「よく来たね。きっと今日来ると信じてたよ」
「……忠彦さん?」
千枝は戸惑った。
見たところ忠彦なのだが、高知にいる忠彦よりも背が高い。それに二重まぶたとエクボまで追加されている。
千枝は忠彦の口をこじあけて、なかを覗いてみた。虫歯がひとつもない。高知の忠彦は、若いくせに銀歯がいくつもあった。
そして、忠彦のシャツのボタンをはずして胸板を見た。高知の忠彦より厚い。腹筋も板チョコのように割れている。
ぷりんぷりんした高知の忠彦の腹しか知らなかった千枝は、これが本質的な男の腹なのね、と胸をときめかせた。下腹部の確認作業は、人目があるので延期することにした。
やっぱり本質だわ。現象よりもずっとよくできてる。でも、
「その頭……」
「うん。男子の服役囚はみんな坊主刈りなんだ」
高知で、千枝への思慕を抱きながらいずれは消滅してしまう忠彦への憐憫の情と罪悪感は、忠彦の本質的な外貌を見た瞬間に蒸発した。
改札口の前の車道を渡ると、《貝殻商店街》の入り口になっている。
そのなかをしばらく行くと、ローソンの隣に10階建ての刑務所があった。
「わぁ、立派なブタ箱ね!」
「気に入っただろ」
1階は貸店舗になっていて、焼き鳥屋などの飲食店が占めている。2階と3階は貸オフィスで、消費者金融や芸能プロダクションの社名がカッティングシートで窓ガラスに貼りつけてあるのが見える。
4階から最上階の9階までが刑務所。
忠彦は殺人など凶悪事件の受刑者が独房に収監されている9階に住んでいた。
「おっと、そうだ。これからは本質的な名前で呼ぶんだよ。章吾って」
呼びつけない名前だったので、千枝は俯いて、おずおずと声に出した。
「……章吾さん」
エレベーターを使って4階で降りると、すぐ右が刑務官の詰め所になっている。
忠彦がドアをノックすると、やあ弓崎さん、と言って職員が出てきて、ふたりを受付カウンターの前に案内した。
「こちらが、さっき話した私の婚約者です。人を殺したので、彼女を投獄したいんですけど、私の監房にいっしょに収容してもらってもいいですかね」
「いいっしょ。じゃ、これに記入してください」
千枝は、忠彦に教えられた通りに入獄申込書に記入した。
入獄申込書 姓名: フリガナ: 生年月日[*]:T・S・H 年 月 日 罪名: 希望刑期: 血液型[*]:型 身長・体重[*]: cm kg 特技[*]: 得意科目[*]: 連絡先[*]: 当所を選んだ理由[*]:
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廊下の窓からは、オホーツクの冷たく荒あらしい海が水平線まで見える。
温暖な南国土佐の海を見て育った千枝は、まったく異なる組成を持った海を見ているような気がした。
ふたりは、互いの指を絡ませるように手をつないで、愛の巣となる監房に続く廊下をのんびりと歩く。ときどき眼を合わせては微笑んだ。
途中、休憩所で卓球に興じる受刑者たち、運動施設で卓球に汗を流す受刑者たち、娯楽室で、教誨師と人生最後の卓球を楽しむ死刑囚たちを見た。
「やだ。これカワイイ!」
マリンブルーに塗られた章吾の監房のドアいっぱいに『うみいた』の登場人物が、ちりばめるようにして描かれてあるのを見て、千枝は女子高生のような甲高いソプラノを廊下に響かせた。
「どうぞ」
章吾が、ドアを開けて千枝を招き入れたとたんに、千枝の声がバリトンに変わった。
「なんで便器?」
部屋の隅には、黄ばんだ便器が、あまたの受刑者の排泄物を呑みこんできたであろう口を大きく開けて立っていた。
「ここで……するの? 章吾さん」
「そうだよ。独房ではどこでも当たり前のことさ。用足しをするたびに看守を呼んで腰縄をつけてもらって、トイレまで付き添ってもらうわけにはいかないだろ。収容者はいっぱいいるんだから」
なんの前触れもなく、いきなり失望が落下してきて千枝の脳天を陥没させた。
便器だけではない。シミだらけの壁。赤錆だらけの鉄格子がはめられた窓。鏡のない洗面台。黒ずんだタオル。あちこち破れて藁が露出している畳。それらがいっせいに千枝の神経に襲いかかってきた。
「それより、千枝。これがいま描いてる漫画なんだ。こっちでは評判がよくてさ、けっこう忙しいんだ。そこで、君にアシスタントをやってもらおうと思ったんだよ」
と言って章吾は、傷だらけの文机のうえに散乱している原稿を指差した。
「そうだ、昨日、エッセイの連載の依頼も来た。これから忙しくなるぞぉ!」
茫然自失の千枝には、章吾の話がまったく耳に入らない。
「なにこれ。あたし、こんなところで暮らすの?」
「そうだよ」
「刑務所がこんなに荒んだところだったなんて知らなかったわ」
自慢するつもりだった漫画の仕事にまったく関心を示さない千枝に失望した章吾は、諭すように言った。
「千枝。ここは保養施設じゃないんだよ。罰を受けるところなんだ。僕も千枝も、尊い人命を奪った。快適な暮らしをする資格はないんだ」
「そんなことどうでもいい。あたし、部屋の中でするのはイヤ!」
「もちろん、僕は千枝が用を足してるところなんか見ないよ」
「わかってないわね。音もするし臭いも出るのよ。オシッコはまだいいわ。ウンコすると、ブリブリ、ボチャンって大きな音がして、臭いが部屋に充満するのよ。そんなところでご飯食べたりセックスしたりできる?」
「できるよ。すぐに慣れるさ」
「慣れっこないわよ!」
「だったら、下まで降りていって隣のローソンでトイレを借りるしかないぜ」
「……しかたないわね。そうするわ。だから章吾さんもウンコするときはローソンに行ってね」
「やだよ、そんな面倒なこと」
「じゃ、章吾さんのウンコの臭いをあたしに嗅がせたいの? そんな趣味があったなんて知らなかったわ」
「変態みたいに言うなよ。せっかく便器が部屋にあるのに使わないって、宝の持ち腐れじゃないか」
「便器のなにが宝よ!」
「便器がなければ生活できないじゃないか!」
「だったら便器と結婚すれば! あたし出てく!」
「出てくって、どこにだよ。なあ、ちょっと話そうよ」
「うるせえバカ野郎!」
絶叫して、千枝は監房を飛び出していった。