32. 現象と本質
あの晩から1週間経った日の夕暮れ時。子供たちの姿が見えなくなった九州中央公園で、千枝がブランコをゆるゆると漕いでいると、
「川上さぁ~ん、川上千枝さぁ~ん。お手紙預かっておりまぁ~す」
と、拡声器で呼びかける声が近づいてきた。
千枝がブランコから立ち上がると、自転車に乗った郵便局の配達員が見つけて、「いたいた」と拡声器で言いながら公園の入り口までやってきた。そして拡声器で「郵便です!」と言って、封書を差し出した。
川上ではなくて上川です! と言い返す元気もなく、それを黙って受け取った。
差出人は里村忠彦。千枝の婚約者だった。
前略 千枝、しばらく見ないけど元気かい? 捜査は進んでるかい? 僕、つまり高知にいる里村忠彦は「現象」、すなわち「本質」が投影された姿であって、その本質は、いま北海道の歯舞群島のひとつ、貝殻島にある刑務所で漫画を書いている《海洋板前》、つまり、おたうわ欽平(本名:弓崎章吾)なんだよ。 君に嘘をついていた。 土佐弁は、大河ドラマ『龍馬伝』を毎週欠かさず観ていたから、君と出会ったときには、すでにネイティヴと変わらないまでになっていた。君も気がつかなかっただろう。 現象としての里村忠彦は、まだ製麺所で元気に働いているけれど、君がそばにいなくなったので、それ以来、少しずつ、誰も気がつかないほどゆっくりと色が褪せ続けている。半年もすればすっかり消えてしまうだろう。職場の人たちに気づかれずに職場を去るために、現象はみんなそういう仕様になっているんだ。悲しまないでほしい。 千枝。僕は千枝に逢いたい! できることなら、いますぐにでも九州にまで飛んでいきたいところだけど、囚人の身ではそれはできない。もし君の都合がつくのなら、本質の僕に逢いにきてくれ! 敬具 |
千枝はアパートに走って帰るとすぐに、段ボール箱の机で返事を書き始めた。
前略 忠彦さん。あたし、そっちに行けるかもしれないわ。本質的な忠彦さん(欽平さん? 章吾さん? どう呼んだらいいかしら)のいるところに。 でも少し待ってほしいの。 もし犯人が生きててまた事件を起こしたら、あたしは関係ない人を焼き殺したことになる。そしたら、誤殺の罪状をひっさげてそっちに飛んでいく。そして、あなたの腕の中で服役するわ。 ああ、あれが人違いだったら、どんなに素敵でしょう!
かしこ |
「お手紙ぃ小包ぃ~うけたまわりまぁ~す」
アパートのある地域をのんびり流している郵便車を呼び止めて手紙を託し、返事を待った。
前略 こっちはもう雪が積もっている。南国土佐に育った千枝には想像もつかないだろう。 漫画はまだまだローカルだけど、歯舞の読者からのファンレターが刑務所に届くようになった。おかげで、メインキャラクターをつかったイラストの依頼なんかも来るようになって、徹夜をしなきゃならないほどだ。 だから千枝、もし君がウチの刑務所で服役することができるのなら、僕のアシスタントになってくれないか? いまはとにかく協力者が必要なんだ。 敬具 |
前略 お手紙読んで、飛び上がって天井を突き破って、2階の部屋の床から顔を出して、住んでる人にコンニチハが言えるくらい嬉しかったわ。 刑務所で、忠彦さんの……えっと、忠彦さんと呼んでいいの? 本質の名前でなくていいの?
かしこ |
前略 君の気に入ったように呼んでくれ、どれも僕なんだから。 敬具 |
前略 わかった。じゃあ、いちばん呼び慣れてるから、忠彦さんにするわ。
かしこ |
前略 うん。 敬具 |
前略 忠彦さんの奥さん兼アシスタントとして、いっしょに暮らせるといいなあ。
かしこ |
前略 きっとそうなるよ。ところで、次の犯行はまだ? 僕は待ちきれない。 敬具 |
前略 ごめんなさい。待つしかないのよ。でも、もう10日以上経っても次の犯行の報告がないから、ひょっとしてと思うと不安。
かしこ |
前略 じゃあ、古賀さんとかいう家の人に会って、その下男が久平という名前かどうか聞いてみたら? 敬具 |
前略 やだ。あたしぜんぜん気がつかなかったわ。そうよね、それがいちばん早いわよね。もう忠彦さんたら、テンサーイ! じゃ、これから確かめに行ってくるわね。
かしこ |
前略 そうか。期待して待ってるよ。 敬具 |
千枝は、忠彦の本質から届いた手紙を保管してある段ボール箱に、封書をていねいにしまってアパートを出た。
件の古賀家の玄関ベルを鳴らすと、インターフォンから、浴室で見た女性の声が聞こえた。
「はい」
「こないだ死んだお宅の下男さんは、久平さんていう名前ですかぁ?」
「いいえ」
やった! 誤殺だった! 千枝は、荷物をまとめて九州空港に向かい、歯舞への直行便に乗った。