17. パルプ
ラルフは、警察署から借りてきたビデオを、店の2階にある自宅で繰り返し見たが、舞い降りてきた紙片が邪魔して犯人の姿がまったく見えないので、手掛かりらしいものが何も見つけられなかった。
家族で夕飯を食べながら、ラルフは妻のアイリーンに言った。
「ついてへんなぁ。犯行の瞬間を狙ったみたいに紙くずが落ちてこんでもええやないかなぁ。お不動さんも頼りにならんな。1000円もお賽銭あげたのに。もうお参りなんかせえへん。あほくさ」
「うちら欲張りすぎたんやで。あんたを慰みものにした美容師のあそこを切り落してくださいゆう願掛けはあきらめような。な、サンディ」
「美容師? ああ、あれか。あんなんもうええわ」
「ほな、阪大の学生一筋か」
「ちゃうちゃう。いま追っかけやってるバンドのベースのコにつき合うてくれ言われてんねん。このコ、インドの首都はインドネシアか? て聞くくらいアホやけどめちゃカッコええねん。激アホやけどカッコええ男と、顔は並やけど高学歴の男のふたりとセックスして両方のDNAをもった子供を産むんや」
「サンディ、あんたっちゅう子は……」
アイリーンとラルフは、子供だとばかり思っていた娘が、いつの間にか、しっかりと現実を見据えて将来の展望を描ける大人に成長していることを知って、かわるがわる娘をハグした。
翌日、カフェの店主、シャロン・バーンズが夫のブライアンを連れて、オコーナーの店にやってきた。
「聞いたで聞いたで。犯行の一部始終を撮ったビデオがあんねんて? 見せてえな」
「一部始終ゆうたら一部始終やけど、ほんの一瞬やで。それに犯人が映ってないし……」
「ええから見せて。上がらせてもらうで。ほら、あんたもおいで」
「すまんな、オコーナーさん」
シャロンは、申し訳なさそうにしている夫の腕を掴んで2階に引っぱり上げ、居間に置いてあるテレビの前に陣取って、勝手にビデオを見始めた。
「ああ、こいつが落書きしとったんやな。ウチの店の落書きもこいつが……あ、なんやいまの? こんだけかいな。犯人はどこ?」
「そやから、犯人が映ってないてオコーナーさんもゆうたやないか」
2階に上がってきたラルフを気遣いながら、ブライアンが妻をたしなめたが、シャロンはまったく意に介さず、ガラケーを取り出した。
「こういう難しいことはミラー先生に聞くに限るわ。来てもらお」
「ちょっと待てや。なんでミラー先生やねん」
「なにゆうてんの。ノーベル賞科学者やんか、あの人」
夫が止めるのを無視して、アメリカ村で素粒子屋を経営している、カーティス・ミラー博士を呼びつけたら、20秒後にやってきた。
「わ、はや。お店ヒマですの?」
「ヒマヒマ。ごっついヒマ」
「ヒッグス粒子がバカ売れやてゆうてはりましたやん」
「ブームが去ったら、とたんに売れんようになってしもた。まだ腐るほど粒子ストックがあんのに。段ボール箱に入れて倉庫に積み上げてあんねんけど、半分腐っとるわ」
「んなあほな」
オコーナー家の居間は笑いで満たされた。
「わろてる場合やないやろが」
ブライアンが妻の背中をつついた。
ラルフ・オコーナーがこれまでの経緯を博士に説明して、ビデオを見てもらった。
「先生。この紙切れみたいなもんに落書き屋が隠れてるほんのちょっとの間に殺されて、しかも犯人は姿を消してます。そんなんできまんのやろか?」
博士は、例の場面をもう1度見て答えた。
「人間にはそんなことはできん、という前提で考えるんや。犯人は画面にしっかり映ってるやないか。もう1回よう見てみ」
ラルフがテープを巻き戻して再生すると、人びとから驚愕の声が上がった。
「おおおおお!」
【使徒行伝 第9章18節】
するとただちにサウロの目からうろこのようなものが落ちて、眼が見えるようになった。
「紙や!」
いちばんに気づいたのが自分であるかのような顔でルークが叫んだ。
「さすがはルークや。若いもんはうろこが落ちるのが早いわ」
ミラー博士が眼を細めた。
「ほんでも先生、1秒もないのに紙が人を殺せるん?」
「素粒子のなかにはな、10億分の1秒くらいの寿命しかない奴もおんねん。そんなんから見たら、1秒ゆうたら永久とゆうてもええくらいの長い時間なんや。そやから犯人もその間に、充分にウォーミングアップして、じっくり腰を据えて、慎重に狙いをつけてから刃物を振り下ろしたと考えられるな」
ラルフが聞いた。
「被害者の傷を見ると、犯人はそうとう刃物を使い慣れた奴なんやないか、ひょっとしたら木樵なんやないか、と推理する人たちがいるんですけど、先生はどない思いはります?」
「間違いない。あの紙はどう見ても木樵や」
「それは、紙は木からできる、ほんで木を伐るのは木樵やから、ですか?」
「……ん、まあそのへんやな」
そんなわけで捜査本部は、体重は紙ほどの非常に薄っぺらい木樵の犯行と断定した。